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カフェーパウリスタ銀座本店で美味しい“ブラジルコーヒー(パウリスタオールド)”と“ザッハトルテ”をいただいたよ(下) 【ファイルS37】2013.07.09 

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【ファイルS37】2013.07.09 カフェーパウリスタ銀座本店で美味しい“ブラジルコーヒー(パウリスタオールド)”と“ザッハトルテ”をいただいたよ(下)

幾多の文化人に愛された伝統があるカフェーなんだねえ。

 (上)からの続きです。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54322899.html

カフェーパウリスタの歴史は、明治37(1904)年、世界最大のコーヒー生産国であるブラジル共和国サンパウロ州政庁が、明治の中頃日本移民を導入するに当たって、それに協力するため、初代社長の水野龍さんが皇国殖民合資会社を設立したことに端を発します。


 ところが、皇国殖民合資会社はブラジル移民事業の先鞭をつけたものの、社内に生じた内紛や事業に対する世間の誤解と猜疑、さらには不景気が追い打ちをかけ、頓挫します。

 このように一旦火が消えかけたかに見えた移民事業でしたが、水野龍社長と、松井淳平氏、寺田寛氏が提携した竹村植民商館がその志を引き継ぐことになります。

明治41(1908)年、青雲の志をいだいた水野社長は笠戸丸(かさとまる)に乗り込み初の移民団長としてブラジルの地に渡りました。


 『笠戸丸』というのは、多くの日系移民が神戸港からブラジルに渡った船として有名ですね。

皇国殖民合資会社設立から5年後の明治42(1909)年、水野社長は、ついにブラジル共和国サンパウロ州政庁よりサントス珈琲豆の継続的供与と、東洋における一手販売権を受けます。


それで、水野社長は大隈重信【おおくま しげのぶ:第8・17代内閣総理大臣、早稲田大学の創設者】の支援を得て、翌明治43(1910)年、合資会社ブラジルサンパウロ州政庁専属ブラジル珈琲販売所カフェーパウリスタを創立し、さらに翌年の明治44(1911)年、ついに京橋区南鍋(なべ)町(銀座6丁目)裏、現在の交詢社の真向い角に、白亜三階建ての洋館を建設します。

南米風のスタイルを加味した外観をもつ洋館は外側をイルミネーションで飾りつけ、パリの著名なカフェ、『プロコック』を模した斬新なカフェー(喫店)のカフェーパウリスタ銀座店併設し、朝野の名士を招いて華々しく開店します。


 水野社長はこの時「今日皆様に供する珈琲は日本移民の労苦がもたらした収穫物で、この一杯には、その汗の結晶が浸け込んでいる。準国産品ともいえる珈琲を普及するために、是非ご協力をいただきたい」と挨拶し、喝采を受けました。

 本当にブラジル移民の方々は苦労されたのですね。

 移民当初の苦労もそうですが、大東亜戦争時もとても苦労されました。

 後は、お店でもらった『創業百年 カフェーパウリスタ物語』からそのまま書き写しましょう。

イメージ 1


  
※   ※   ※

 喫店(カフェー)では、一合たっぷりはいる厚手のカップ一杯の珈琲を五銭で提供し、特異な形をした陶器の砂糖壷(つぼ)と灰皿を配置した白大理石のテーブルに、パリー風の曲木椅子(まげきいす)四坐を配し、これを階下に七席、二階に十八席を置き、砂糖はお好み次第、米国風の暖かいドーナッツと数種類のサンドウイッチを供しました。

 その異国風な雰囲気と斬新な販売方法は人々の目を瞠(みは)り、珍しもの好きな都人に歓迎され、開店早々から多くの人々がこの店に集まり、朝九時より夜十一時に至る営業時間中、日々四千杯の珈琲が飲まれた程の盛況を呈しました。

 珈琲をはこぶ給仕は海軍士官の正装を模し、肩章をつけた純白の上着に黒ズボンで十五歳未満の清潔感のある少年達でした。大正の中頃には、横浜の西川楽器店から米国製の自動ピアノが持ち込まれ、カルメンやメリーウイドウの曲がながれ、珈琲の芳香にとけあい、紫烟(たばこ)のなかに、美しい旋律(メロディ)が溶け込み新しい時代風景を表現していました。

イメージ 2


 
 宣伝方法も奇抜なもので六尺余りの巨漢(おおおとこ)が燕尾服を着用し、シルクハットに白手袋という正装で傍に紅顔の少年を伴い、銀座通りに立って「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱き」のキャッチフレーズで路ゆく人に珈琲試飲券を配ったり、妙齢婦人に正装させ家庭を訪問して珈琲の淹(い)れ方を伝授したりしました。

※   ※   ※
 
 『銀ブラ証明書』に記されたキャッチフレーズ。

イメージ 3


 
 大正初期、当時まだ珍しいトラックで製品を毎日配達していたそうです。

イメージ 4



 これは良い宣伝になったのでしょうね。

 日本にコーヒーを飲む習慣を根付かせるために、淹れ方の出前指導までしていたなんて、びっくり!

 カフェーパウリスタは、当時の西洋文化移入の最先端だったのですね。

 米国製の自動ピアノって、ピアノロール式のものかな?
 

それでもって、ディアナ・ダービンによるレハール作曲『メリー・ウィドウのワルツ』のリンクを貼っておきました。(埋め込み禁止になっていたので、リンク先で聴いてね)

 DEANNA DURBIN SINGS WALTZ LEHAR LIVE 1937
http://www.youtube.com/watch?v=fqHT267vb2A&feature=fvwrel

 古い録音なので雑音が入りますが、昔のカフェの雰囲気がある音源です。

 ディアナ・ダービンは、1930~40年代のハリウッド映画で活躍した、カナダ人の女優・歌手で、世界中で大人気を博しました。

 『アンネの日記』の著者アンネ・フランクが、第二次世界大戦中に隠れ家の自分の部屋の壁にディアナ・ダービンの写真を貼っていたことでも、その世界的な人気の程が知れます。

 ディアナ・ダービンは、大指揮者のレオポルド・ストコフスキーと共演した映画『オーケストラの少女 【100 Men and a Girl (1937)】』で、日本でも大人気だったんだねえ。

 ちなみに、レオポルド・ストコフスキーさんは、ディズニーの音楽アニメーション映画『ファンタジア』にも出演演奏しているのでご存じの方は多いと思います。

大正時代、パウリスタは文化活動の拠点として、多くの著名文化人に愛されました。


 文壇では、水上滝太郎(みなかみ たきたろう)、吉井勇、菊池寛、久米正雄、徳田秋声、正宗白鳥(まさむね はくちょう)、宇野浩二、芥川龍之介、久保田万太郎、広津和郎、佐藤春夫、獅子文六、小島政二郎など。

 演劇界では、小山内 薫(おさない かおる)、上山草人(かみやま そうじん)などが常連でした。

 小山内氏は大谷竹次郎(おおたに たけじろう)が松竹キネマ合名社を設立した際に、創設されたキネマ俳優学校に招かれ校長に就任。

 松竹キネマ研究所を設立するなど、映画界に関わって多忙な日々を送っていた頃に、ここの珈琲で喉を潤し、心身の疲れをいやしたそうです。

 また、大正活映が朝野総一郎の後援で横浜の地に設立された時、米国帰りのトーマス栗原がパウリスタに同志を糾合し、また、『純粋劇映画運動』を唱え『近代映画協会』を主催し、日本に初めて『映画女優』を登場させた映画理論家、映画監督、脚本家の帰山教生(かえりやま のりまさ)など、日本映画に神風を吹き込んだ多くの人達もここに集いました。

 画壇では、帝劇で舞台装置の新機軸を模索すべく研鑽をつんでいた若き日の藤田嗣治(ふじた つぐはる:レオナール・フジタ)、村山槐多(むらやま かいた)、吉田博などが常連だったそうです。

 やわらかな 誰が喫(の)みさしし 珈琲ぞ
   紫の吐息 ゆるくのぼれる        白秋

“銀ブラ”という言葉の、『文化人がカフェーパウリスタ銀座店でブラジルコーヒーを飲む』という本来の意味からすれば、ここは芸術を志す若者の憧れの聖地でもあったのですね。


 そういう歴史を感じながら、いにしえのモダンな銀座に思いをはせるのも楽しいものです。

 ということで、カフェーパウリスタ銀座本店でした。

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